文学フリマ東京(またはアニメクリティーク寄稿についての宣伝、少女終末旅行と写真の話)
文学フリマ東京の季節です。
今回はアニクリに少女終末旅行とプリンセス・プリンシパルについて寄稿しています。
アニクリの全体の内容はこんな感じだそうです。
目次全体はこちら。批評文9本、コラム2本、対談一本をかなりギリギリまで詰め込んでおります。
— アニクリ@5/6東京文フリ.カ09 (@anime_critique) 2018年5月2日
2017-2018を中心としたアニメ作品を振り返りたい方、アニメーション/ゲームシーンの現在を展望したい方、観光に還元されない旅という現象について省察したい方などなどには、是非お手にとってもらいたく。 pic.twitter.com/HYRo7awFhw
詳しくは
宣伝とはいえ、少しアニクリとは違った視点で、写真と少女終末旅行について語ってみたいと思います。
土門拳
文章内で土門拳に触れたのは、偶然図書館で土門拳が書いたエッセーを見つけた。
ということもあるのですが、
社会的リアリズムという言葉が気になったということもあります。(社会的リアリズムの説明は省きますが)
少女終末旅行という世界の中でも、土門拳もその後の写真家も注目した「記録」ということを意識させる状況な訳なのですが、
土門の主張をそのまま肯定する訳にも行きません。
「絶対非演出の絶対スナップ」にしても、「乞食写真」と揶揄されたこともある通り、
それだけが写真の可能性ではないはずです。
少女終末旅行においては、その具体例が映像として例示されます。
気を付けなければならないのは、土門拳の主張は、今では忘れがちなことも同時に提起していたことです。
それは「さまざまな理論的矛盾や不整合性を抱えこみながらもきわめて説得力の強い、魅力的なものになっていた」*1のも事実なのです。
写真と映像
最終話ある場面で初見の時には涙が止まらなくなり、再視聴の時も目頭が熱くなったことを記憶しています。
それはチトとユーリが、艦内のコンピュータによって空中に浮かんだ様々な映像と写真を見ている場面です。
なにげない映像と写真はアーカイブとして機能し、写真と映像の差は「音」と「動作」というシンプルなものになります。
そして、写真が動きを止めるように終末旅行においても世界が「停止」すると断言されるのです。
断片的ではあるもののアニクリを読む中で参考になるのではないか思った点を強調して書いてみました。
この短い文章を読んだ後、アニクリの最新号を見てもらえれば幸いです。