帰宅後はアニメとミステリーとともに

ツイッターや読書メーターでは書ききれなかったミステリーの感想やアニメの考察など

あまんちゅ8話のコト(もしくは登場人物の性格を考えるコト)

音楽、ストーリーもとても安定してよく、名言に感じるセリフがいくつもあるいいアニメです。
そのあまんちゅのアニメの中でも一番好きなのが、8話の「まだまだ知らないコト」です。
今回に関しては、見たらわかるよ。と言われるかもしれませんが、書いていきたいと思います。(以下小日向 光をぴかり、大木 双葉をてこ)
てこの悪い癖
体力測定の中でてこはぴかるから「嫌なことからすぐに逃げちゃう癖」があると指摘されます。
通常、ここで注意するのは「最後まで力を抜くな」ということです。
(ぴかりも「駄目だよちゃんとやんないと」とも言ってますが、不満を持っているとすればてこが自分の実力を過小評価し過ぎていることでしょう。)
通常、自分の力を最大限に出せば、勝てると言い聞かせたり、励ますようなものになります。このやり方でも問題ないように思えます。
しかしマイナス思考で繊細(アニメの中で何回も強調されています)であるてこの性格を考えれば、違う方法を考える必要があります。

ぴかりが考えたのが、ゆっくり走って余力を残した状態で終盤までレースをして、終盤でごぼう抜きするというもの。1000M走だから出来る戦略です。
通常スタミナの関係で無茶になるのですが、体力測定の結果でてこはおそらく耐えられるだろうと考えた訳です。
てこの悪い癖がでないようにするにはどうしたらいいか?と考えたぴかるの「やり方と考え方」に柔軟な発想があります。
てこは負けず嫌い?
ぴかりはてこが負けず嫌いなのではないかと言います。
冒頭でのてこのぴかりの紹介・時々わんこのようになるという感想を見ると間違っているようにも思えません。
考えてみると、100M走で抜かれたときに力が抜けてしまったのは、他人に負けないと意識しているがためと言えます。
嫌なことからすぐに逃げちゃう癖も自分が出来ないことが悔しいから逃げてしまうと考えれば、納得がいきます。

「良く知っていると思っていても、知らないことはいっぱいあって、それを見つけるとなんだか宝物を発見したようにどきどきしてうれしくて」

(長いセリフなので一部省略)
さて、このセリフの時、一旦カメラは二宮 愛と二宮 誠それぞれを映します。
この話だけを切り取ると意味を感じないのですが、前半の「秘めた思いのコト」を考えると意味が良くわかります。
姉弟であっても知らないことがあるのだから、てことぴかりには知らないことはいっぱいがあるよと。
前半のお話と関わったものであることがカメラワークからも分かり、この話を更に良くしています。

 

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アナザーと叙述トリック(またはコミケで寄稿したものの宣伝)

 

 他にもFani通2015下半期(アニメのクロスレビュー)と余白のR(今号で休刊)という同人誌に初参加しました。

宣伝は簡単にして、アナザーに話を移しましょう。(ネタバレを含みます)

アナザーという作品には、叙述トリックが使われています。

アニメにおいても完璧ではないものの、うまく処理されています。

 

そもそも叙述トリックって?

 

他のミステリートリックに比べると、争論が多いトリックでもあります。

小説でないと出来ないものが多いのも特徴です。

心理トリックの一部と定義(割と一般的)されますが、人によっては「鬼子」という言葉で表現されます。

調べるときには著者が肯定、否定どちらに見ているかで印象ががらっと変わってしまうことにも注意が必要です。

寄稿した評論の中では、どちらの立場の人も引用しました。

 

 アニメ化する難しさ

 

そのまま映像化してはすぐばれる訳ですから、工夫が必要となってきます。

ツイキャスの中で羽海野渉さんが言及してた通り、

叙述トリックだったと分かる必要があるわけですから、最後まで見せる必要も出てきます。

一人二役」のトリックはまだアニメという媒体との相性が良かった部類のものです。

ただ、アナザーではアニメというものを知っている人にとっては、

内容ではない所で、重要な部分が解けてしまうという弱点を持っています。

それが、「声」についての問題です。

演じ分けができる有名な声優にしてもらえば良かったのでは?となりますが、

役柄に比べて、不自然さで気づかれる可能性を考えると、(他の可能性も評論でも触れていますがどちらにしろ)どこまで行っても袋小路に思われます。

実は、この問題を回避したアニメもあるのですが、それについては別の機会に。

評論の中では、他にも様々な点について書いているので、見てもらえると嬉しいです。

Another

Another エピソードS (角川文庫)

 

 

リゼロのレムとラム(もしくは切っても切り離せない関係)

特に原作を読んだわけではないのですが、
物語としてのうまさは先に進めば、よりはっきりと分かるように思えるので、
話を分かりやすくするためにも、あえてアニメの4話以降(原作であれば2巻以降)のみを扱っていきます。
ループの告白を防ぐ仕組み
リゼロの状況であれば、自分からループしていることを言った方が協力を得やすいのでは?と疑問が浮かびます。
ところが魔法のようなもので自分からいうことを封じられ、他人から気づくことも難しい状況であることが示されます。
(ここがシュタゲや僕だけがいない街とは違う所と言えます)
そのペナルティにしかならないはずのものをうまく利用していくシーンもあり、うまさを感じます。

メインの登場人物が少ないということもあるので全ての登場人物が重要に思えますが、
最も注目すべきは、レムとラムの関係にあると言えます。
レムとラム
二人の関係は「泣いた赤鬼」という児童文学で例えられています。
二人の正体を考えれば、この話が大きな伏線であることは言うまでもありません。

(以下 第7話 ナツキ・スバルのリスタート と 第11話 レムの内容から)

それは様々なセリフ、演出から見ることが出来ます。
分かりやすいのが「」です。
(7話の)レムが呪いにより衰弱死したためにラムが泣け叫ぶシーンで、レム、ラムともに影が半身であることに注目してみましょう。
その演出が後のベアトリスの

「どちらが欠けても、あの姉妹は元には戻らない。戻れないのよ。」

というセリフで強調されています。

レムを見ると、ラムの存在があって初めて存在できるもの。

」のような存在ととらえることもできます。

11話でアジサイに注目して見ると、太陽の光が青いアジサイに強くあたっています。

その直後に太陽の光がさんさんとあたった状況でレムの笑顔を見ることが出来ます。
主人公のセリフによって、自分が存在してもいいんだ。自分と言う存在を認めてもらったということを分かりやすく示しています。
問題があるとすれば、主人公のキメ台詞が必要な所にそれらしいものが無かったように思えることです。

レムのことを肯定しているのは明らかなので、どこかしらここが重要なセリフだと思わせる仕組みが、必要だったでしょう。

 

 

ふらいんぐうぃっちという不思議な世界(もしくは魔法と非日常はどうやって日常に変わる?)

 

物語は主人公が魔女のしきたりの関係から、青森県に引っ越ししてくるところから始まります。
作画も弘前市の自然を見せるために綺麗で安定して見れるアニメです。
wikiを見ると日常ものという判定をされていますが、

ふらいんぐうぃっちの場合、少し特殊です。
主人公が魔女というのはもちろんのこと、

通常であれば非日常と言える事柄も日常の出来事として流れていくことです。

 非日常へ導く登場人物

特に顕著なのは、春の運び屋ひなです。

怖い展開にしようと思えば幾らでもできそうな登場人物なのですが、

このアニメではそんな風にはなりません。

倉本千夏(以下千夏)も驚いていますが、むしろ、春の運び屋の方が過敏に反応したと言えます。
自分の姿を見て、怖がってはいないかと気にして、千夏に春の花をプレゼントする展開になります。

ひなは元々、姿を見せてないのに魔法で強引に見せたという事情があるにもかかわらず、そのことを怒ることなく、顔を真っ赤にして恥ずかしがっています。

(その後おかめの仮面をつけて、接客したりします)

幽霊だからといって誰かを恨んでいるという訳でもなさそうで、現世に留まっている理由もアニメを見る限り、明確には語られていません。

魔女という役割
木幡茜(以下茜)が主人公に自分でどんな魔女になりたいかを考えればいい(大意)と言うようにこうでなければならないというものはあまりないようです。
といっても魔女になりたいと千夏が言ったときはややシリアスです。
千夏がいない状況で、魔女になるのは大変なことも説明されます。
ただ無下に否定することなく、魔女見習いとして色んな経験をさせてもらうことになります。
主人公や茜から見れば、魔法を使えることでどんなことができるだろうと考えたり、

経験したりすることで千夏の想像力を豊かにできるのではとも考えているのかもしれません。

まとめ

畑づくりをしたり、山菜をとったりと魔法と全く関わらないことを交えた上での非日常ということでうまくバランスをとった作品といえます。根幹の魔法の部分についてもできるだけ、ゆるやかな物語になるように設定されています。

ふらいんぐうぃっち(1) (週刊少年マガジンコミックス)

 

四月は君の嘘はスクリーンでどう紡がれる(または実写化はどうされるべき)

東京であった文学フリマに出かけて、

購入したものに四月は君の嘘(以下 君嘘)

について触れているもの(フィクションは重なり合うとMerca)があったので、また書きたくなりました。

既にアニクリで書いているののとツイキャスでも話しているので、ここでは君嘘の実写化が成功する条件を考えていきたいと思います。
(音楽の質がいいことは必須なので、そこ以外を考えてみましょう。)
作品の性質
回想の多いことが特徴で、映画の場合尺の関係上、まとめられる可能性が高いです。
ただ、「光」の表現、「水」の表現、上を向くといった行動は何回も重ねられていることなので短縮は可能でしょう。

演奏シーン(原作でいくのかアニメでいくのか)
原作では言葉のみに留まっていますが、アニメにおいては水を使った表現が描写されています。終盤の演奏は映像としてもカラフルで美しいので、最大限表現すべきところです。(光の表現についても同様)
CGを効果的に使うのであればこのシーンだと思うのですが、アニメだからこそ良かった表現にも思える所があります。

とはいえ原作の通りにするのは簡単ですが、作品の良さを考えるなら、CGを使って表現するのがいいでしょう。

宮園かをりのエピソードに集中すべき?
物語としてはシンプルになるように思えますが、必要性が薄いメインの登場人物がいないのも、この漫画・アニメの特徴です。
宮園かをりはもちろんのこと、ヒロインは特にその傾向が強く、ピアノ抜きで公正のことを好きな澤部 椿、連弾をした相座凪。それぞれ重要です。
特に演奏シーンもある相座凪は省略するべきではないでしょう。

(ファントムやクリスティーヌといった用語は原作やアニメより説明がいるかもしれません)

お手本になる作品は?

最近の漫画原作・アニメ実写化といえばちはやふるを思い浮かべます。

一瞬の勝負であることを強調させるスローモーション。

上の句においてはCGがうまく使われています。

君嘘であれば重要にされるべきは演奏シーンに他なりません。

 

原作をどれだけ短くまとめ、テーマをはっきりさせるか。重要なシーンをいかに強調できるかというのは、変わりが無いといえます。

 

四月は君の嘘 ORIGINAL SONG & SOUNDTRACK

ミステリーのアニメ化はなぜ難しいか(またはミステリーとアニメの親和性)

分りやすくするために最近のミステリーに関わるアニメを紹介しながら、難しさを考えます。

僕だけがいない街

(以下僕街)

終盤は原作と違う形であったり、OPは回によって微妙に違いがあります。更に校舎が水で満たされる描写、EDでハムスターが回し車を回している様子など展開を暗示する直接的なヒントが盛り込まれていました。
そうした様々な工夫があり、内容も相まってうまさを感じるアニメでした。
ただ、僕街の場合、どうやってこの運命を変えるか。というのが主で犯人が誰であるかということは意外と重要ではありません。

ミステリー要素があるアニメとは言えても、多いアニメとは言えないでしょう。


ハルチカ櫻子さんの足下には死体が埋まっている

(以下櫻子さん)


差はあれど,時間の制約によって視聴者に推理する、考える時間が無いというのがどちらでも出ています。
ただ、櫻子さんではアニメという形をうまく使った回が存在しています。
それは第玖骨で、Aパート、Bパートで違う謎解きをしている回です。
どちらもおばあちゃんの「愛情」がポイントになる話で、Aパートの謎がBパートの謎のヒントとしても機能していて、ちょうどいい難しさに思えます。
ただこの手法はひとつのアニメで何回も使用できるほど便利なものではないということです。
原作があったとしても似てるかつながりがある話がなければできず、アニメに携わるスタッフの力量が試されます。


ミステリーをアニメにする難しさ


時間にあるといっても過言ではないように思えます。


とツイートしていますが、
この事情があるために1クールですると、余計に難易度が上がります。(原作が小説の長編だと1クール持たせることに工夫が必要となります)
2クールなら時間をかけなければならない話に話数を当て、かけなくてもいい話は1話もしくはAパート、Bパートでというのが理想に思えます。

 

 

ハルチカ (1) (カドカワコミックス・エース)

ハルチカ (1) (カドカワコミックス・エース)

 

 

 

ディメンションW・アニメと原作の差異(もしくは省略される表現・強調される表現)

アニメでは時間が限られているので、原作から省略される場面が出てきます。

原作との差は多かれ少なかれ出てくるので、通常アニメを見る際はあまり気にしません。

ただ、この「アニメ通りの原作なら、短編が得意な人なのだろうか?」と思ったほど一シーン、一シーンで言葉なしに設定が説明され、言葉での説明も短く収められています。

原作と違いがあることは色んな人のツイートだけで分かったので、検証する必要があると思い、原作を買って確かめてみました。(ただし、アニメより先の展開を見ないため3巻で見るのを止めています)

 

(アニメだと1話にあたる原作のシーン)

「なんでもないただのペットボットだ」

「コイルも正規品どこからか紛れ込んで来たんだろう」

というシーンが原作にあります。

アニメだと冒頭でネコの背中にコイルが入っているワンシーンで

「動物にもコイルをつけるほど、コイルが浸透しているということ」を説明しています。

 

2話ではハトの扱いでしょう。

原作だと1巻の終わりあたりで既に登場しています。時系列としてもアニメより早い段階です。

アニメでも確かに登場しているのですが、

見ている側としては単なる演出として処理されてしまうものです。

「干渉している装置」は高い所にあるとして、どこにあるのか?と謎が残ります。

 

3話は原作をかなり省略されたものになっている他に、(設定は同じなのですが)何故、マブチ・キョーマが釈放されたのか?、ニューテスラのCOO、クレア・スカイハートが関わってくるのか?という原作には、無い謎が生まれます。

それは孫があの子供の中にいたからという理由なのですが、設定がうまく活かされています。

(4話は5話が終わってみないと良かったかは判断が付きません。)

 

注目しなければならないのは色々と省略されている中で、

強調されているマブチ・キョーマ(以下 キョーマ)と百合崎ミラ(以下ミラ)との正反対にも思える関係です。

キョーマについていえば、原作と比べても無表情。身体能力のすごさは人間を超え、ロボット(アンドロイド)のようなイメージを抱きます。

ミラに関していえば、涙が出て、感情豊かでアンドロイドのはずですが、むしろ人間のようなイメージを抱きます。

詳しく言えば、ナノマシンを血液のように循環させたり、睡眠とトイレに行く必要があったりと「人間に近づける」という製作者の意図が見えます。

ここが重要なのは原作でも同じなので、徹底したと言えます。

 

心情面での正反対に思える関係を短い時間で強調しているのが、トイレのシーンです。

原作にもこの場面自体あるのですが、違いがあります。

原作ではキョーマが急いでドアを閉め、ミラが慌てて説明をしています。

アニメでは、アンドロイドだけど次回からはこんなことが無いように鍵をつけるかバスルームをつくってほしいという原作よりも長い説明が入ります。

そしてそれをずっとキョーマが聞いています。

キョーマはずいぶん長くトイレを開けたまま、表情変えずにミラの説明を聞いていたことになります。

少しも恥ずかしがらず、慌てず、無感情なのではと疑いたくなるシーンです。

ミラについていえば、冷静に対処をしていますが、汗での表現と少し早口になっている(ように聞こえる)ことを考えると恥ずかしがっているのは確かでしょう。

こうした違いは小さな差ではあって伝えることが変わってくる重要なものです。

 

駆け足となった気がしますが、今の所の試論です。

面白いアニメなので、今後も注目していきます。

 

ディメンションW(1) (ヤングガンガンコミックス)